2010年12月2日木曜日

書評:アメリカ人はなぜ肥るのか

アメリカに行くと、本当に肥満だらけだ。BMI30以上を肥満 obese と呼ぶが、米国市民の30%にも達する勢いだ。BMI25以上は太り気味 overweight と呼ばれるが、6割以上と言われている。ちなみに、日本ではBMI25以上を肥満と呼ぶ。米国は、今や肥満大国だ。結果として、肥満原因の病気増加による 医療費の増加だけでなく、米国軍における新兵採用プロセスでの不合格率の上昇による兵員充足率の減少、さらには飛行機や公共交通機関での燃料効率の悪化な ど、とにかく肥満は社会の敵なのだ。しかし、この肥満を増やしているのが、米国外食・食料品・飲料産業なのだ。デブは作られている。基本的に、高カロ リー、高炭水化物、低栄養素食品が蔓延しているのだ。
さらに、食生活も食べ過ぎを蔓延している。とにかく味が濃く、脂っこく、しかも大量なのだ。これは、コーラに代表されるソーダ飲料を定常的に 飲むことから、味覚音痴になっている。味が濃くないと不味いと判断してしまうようになっているのだ。このような外食産業の社会展開(例えば学校で清涼飲料 水を売る)ということで、デブがシステム的に作られるのが米国だ。
この傾向は日本にもやってきている。メガ食は、その明確な証拠だと筆者は言う。怖いなぁ。ちなみに、メガ食は、米国でBurger Kingが売り上げを伸ばすために導入した、明確な経営戦略だったそうな。作られたメガ食なのだ。
デブにはなりたくない。本当に意識をちゃんともって食事管理をしなければデブになる。日本でもそういう状況だ。気を付けなければ。
ちなみに、米国で優秀なレストランは、どんどん軽い味付けと香りをもった食事を出している。量も適切。ところが、安価な物になればなるほど、味が濃く、脂が多い。肥満は、貧困によって外食産業の餌食になることが多いのだ。これも日本でも気を付けなければならない。
本書は、このような状況を簡単に理解することができる良書であると思う。

2010年9月17日金曜日

書評:アリアドネの弾丸

海棠尊の「田口&白鳥」シリーズは、著者本人が別作品(死因不明社会)で述べているが、日本では、私たちが死亡したときに、適切に死因が特定されない状況を改善すべきであるという主張をしている。死因が特定できない社会状況を放置すると(1)適切な医療が行われたかどうかの検証ができないために医療の高度化が望めない、ひいては国民の福祉の向上にはならない、(2)死に事件性が有ったときに適切な司法捜査が行われるかどうかがわからない、つまり犯罪を見逃してしまう、というリスクを指摘している。これは、現在の検死制度、司法解剖制度等に大きな構造的問題があるのだ。これをAI(死亡時医療検索)をすることで改善できる可能性を、十分な合理的理由付けで示している。

さて、今回の「アリアドネの弾丸」は、仮にAIが導入された時に、何が抵抗勢力になるかを明らかにすることを目的にして執筆されたものであることは明らかだ。そして、その抵抗勢力とは、警察権力である。現状では、検死・司法解剖制度に不備があり、死因が特定できない、あるいは、特定しようとしないことが平然と行われている。そして、その状況を検証する手段すら、警察が独占している。したがった警察の手抜き行為を指摘し、捜査活動を改善していく道すらない。仮にAIが導入されてしまうと、死因特定できる可能性が高まり、このために事件性があっても警察の怠慢によって見逃されてきた事案が明確になる。このようになると、警察にとっては痛く都合が悪い。したがって、AIを警察が管理できるところに置かなければならないという方向に行くであろう。

一方、海棠は、AIこそ医療の側に置かなければ、現在の警察の怠慢や隠蔽を監視する機能を果たせない。警察の活動を監査するメカニズムとして機能させるには、AIは医療の手になければならないと主張する。

このような抵抗勢力「警察」を真正面から取り上げ、その問題を明確に指摘するために書かれたフィクションが、この「アリアドネの弾丸」ということができるだろう。

それにしても、著者は、警察官僚の考え方、発言の癖、そして行動の癖を本当に良く表現している。まさに内閣官房で働いてきたときに、目の前で現れる彼らの挙動性向を本当に良く表現している。そして、社会のことをそっちのけにして、自分たちの組織防衛と無謬性伝説を維持することだけに全力を尽くす「馬鹿さ加減」も良く書かれている。どこで、その特性を学んだのだろうと気になって仕方が無い(笑)

小説として見たときには、白鳥のコミカルさがやや少なく、スーパーマンに仕立て上げられてしまっているところが鼻につくが、まぁ、そこは仕方ないのかな。さらに、実際の医療現場における画像処理利用環境の表現についても、多少何をイメージしているのかが気になる。特に、電脳紙芝居と呼ばれるシステムは、3DモデラーにMRI等から撮られた断層写真をはめ込んでいくシステムだと想像が付くのだが、それでもこの小説に書かれているようなレベルでの表現ができるものがあるのかどうか。それも気になって仕方が無い。

とはいえ、良く出来た小説だ。一度読み始めたら、最後までグイグイ引っ張って行かれる筆力は凄い。シリーズを読んでいない人には、少しだけアドバイスを。本書を読むには、少なくとも田口&白鳥コンビシリーズの前作「イノセントゲリラの祝祭」とブルーバックス新書「死因不明社会」を読んでからのほうが、理解が高まって良いだろう。

2010年7月1日木曜日

デブのもと

Gene Spafford 先生が FB でご紹介されていた。いや、凄い。これは凄い。本当にすごい。気持ち悪くなりそうです。「アブラー」な感じ、「シュガー」な感じが満載です。見てね。こんな画像が満載のサイトですわ
"This is why you're fat"

2010年6月27日日曜日

紙の本と電子書籍

最近 kindle とか iPad とかの普及で、電子書籍が話題だ。確かに、本を持ち歩くのは重いし、読了後の本は本棚に溢れ、しかも実用書でなければ何度も読み返す本はかなり少ない。それを考えると、電子書籍となれば、重さの問題や、保存の問題も解決する。さらに、電子化によって検索性が確実に向上するし、百科事典等のリファレンス系書籍では電子書籍によって構造化した構成が可能となるといった、電子化に特有の利点も享受することができるようになる。良いことづくめだ。
ところが、一方で、おいらの中には紙の本に対する未練がたっぷりある。たぶん、これからも紙の本を買い続けるであろうと思う。手触りと重さ、パラパラと頁をめくる感覚は、電子書籍では得られない。積み上がった本は、空間を占拠するが、同時に自分の中での知的活動の達成感を高めてくれる。紙とインクの香りもセクシーだ。紙の本を読むという行為が持つ「身体性」に惚れているところがある。
先日、ある方から「今後10年ぐらいで世の中は急激にEV(電気自動車)に変わっていくでしょう。先生はどうされるんですか?」と聞かれた。おいらの答えは「とはいっても、ガソリン車の泥臭さと、MT車の操作感は忘れられないから、やはり今後もガソリン車に拘っていくのではないか」だった。
おいらは「身体性」という桎梏に捕らわれているのだろう。しかし、「身体性」に捕らわれることは後進性では無い。単に考え方の違いだけだ。ただ、生き物としての人間である以上、身体性という要素を積極的に無視するような生き方はしたくない。

2010年6月26日土曜日

書評:生き残る判断 生き残れない行動 / アマンダ・リプリー は良書です

ハリケーンカトリーナ、911米国連続テロ事件、スマトラ沖地震による巨大津波といった、大惨事、大災害が発生した時に、無事に生還した人達がいる。そして、同時に、 そこで無くなってしまった人達もいる。人間の生死を分ける判断、行動はどこに差異があるのか。これらについて、人間の行動、心理学、脳内物質、訓練、知識、経験などの観点から解析を加えていくのが本書だ。
特に、惨事に直面して、頭脳はまず「否認」を最初に行い、何も変なことは発生していない。正常な状況にあるのだ、という「正常性バイアス」をかけて状況認知を誤らせるという事実は、少しでも災害や災難に直面したことのある人間であれば、記憶があることだろう。私も、これまでの人生で、災難に直面し、その瞬間に行動を起こすのではなく「否認」のプロセスに絡め取られたことがあるからだ。
そして「否認」状況を越えて、本当にどうしたらよいかを考える「思考」状況にシフトする。このシフトが短期間に行えることが生き残る大きなファクタだと著者は述べる。すなわち、避難訓練。すなわち、避難経路の確認、避難方法の理解。すなわち、定期的な訓練と刷り込み。呼吸法。4秒吸って、4秒止めて、4秒吐いて、4秒止める。こんなことが、正しい思考を行わせることに大きな助けとなる。とても重要なことは、何をしなければならないか、そして、その順番は何かを考えることだ。計画を立てる。そして、それを明確に意識して行動することなのだ。
さらに「思考」のプロセスでは、集団行動が思考を鈍化させることも明らかにしている。つまり、多くの人間は危機事態では、何も考えられないのだ。従順なまでに、リーダーに対して従う傾向がある。逆に言えば、危機事態ではリーダーシップが機能しやすいのだ。だから、脱出時には、リーダーが声を掛け続けることが大切だという経験則もある。飛行機事故で、順調に逃げられたのは機内職員が声を掛け続け、「動け」、「順番に」、「荷物を持つな」、「1,2,3,ジャンプ」と声を掛け続けたことで、誰もが動き、誰もが脱出できた話が示される。これは大きな教訓だ。また、飛行機から脱出する確率を上げるのは、非常脱出説明を読んでいる集団であることも明らかになる。
そして、いよいよ「行動」を実施しなければならない。しかし、ここにも落とし穴が沢山ある。一つは「パニック」による適正な行動がとれない状況、さらに「麻痺」による行動停止がある。これらを克服して、人間は生き残れなければならない。どちらも生物学的な理由による延命反応なのだ。本能に捕らわれてしまうのだ。そこを乗り切るには、自分に訓練を施すことが必要である。つまり「思考」を優先させるのだ。計画的思考を行う訓練が必要なのだ。
本書は、ドキュメンタリーとしての構成をしているが、やはり教訓が沢山詰まっている。その最たるものが、「八つのP」として紹介されている一言だ。
適切な事前の計画と準備は、最悪の行動を防ぐ
Proper prior planning and preparation prevents piss-poor performance.
災害発生時の自分の行動を予測することを行い、その中で、何を行動しなければならないかを考える。この「思考」のプロセスが、生き残る確率を高めることを本書は伝えている。素晴らしい一冊だ。




ちなみに、著者のHPにも色々な情報が掲載されている。
http://www.amandaripley.com/

2010年6月8日火曜日

書評:「官僚のレトリック」はお勧めです

 おいらは2004年から6年間内閣官房で情報セキュリティ補佐官として勤務してきた。本書で取り扱っている話は、おいらの在任中に、横目でチラチラと見ていた案件だ。そして、官僚が文章に仕込ませるレトリックのテクニックについては、おいらは「霞ヶ関文学」と呼び、おいらのスタッフの皆さんに色々と教えてもらったことだ。まず、疑う人達も沢山いるだろうから、先に書いておくが、本書に書かれている、役人のくだらない言葉での仕込テクニックは本当のことだ(笑)。
さて本書は、公務員制度改革を題材に、安倍自民党政権から鳩山民主党政権までの戦いと、そこでの官僚側が仕掛けてきたことを取り扱い、
  • なぜ公務員制度改革が必要なのか
  • 制度改革として何をすることが必須事項なのか
  • 改革を実施するための戦略は何か
を述べる。本書に書かれていることは、ほぼ正鵠を射た指摘である。本書で提示している解決方法を実現できれば、本当に政治と官僚の関係は、より健全化されると思う。官僚特殊論を排し、普通の知的労働者として機能するようになることと、同時に霞ヶ関に閉じこもり世間知らずにならず、本当の意味で行政専門家として活躍できるようになることが大切だ。そのための処方箋が、本書では論じられている。これは、現在の民主党政権の迷走ぶりを理解する上でも、かなり良い切り込み方だと思う。この本は、とても良い本だと思う。

外部から政府内に送り込まれた専門家として私は、霞ヶ関官僚の専門性の低さ、あるいは、広範な知識集約作業の遅さと下手さを、6年間にわたって毎日見続けてきた。もちろん、優秀な人材も沢山いる。しかし、業務管理の下手さと、政治家の放置プレー、さらには、独特のキャリア制度のおかげで、人材も腐ってきてしまうことも沢山ある。その悲惨さを目の当たりにして、こんなに人材を大切にしない組織は無いなあって思ったほどだ。また、チームプレーという面では、官僚はとてつもなく下手だ。こんな役所の状況を、手直しして機能するオフィスにすることも「公務員制度改革」には含まれなければならない。
この観点から考えると、現在提案されている公務員制度改革では、天下りと渡りの禁止だけを大目標にしてしまい、多少ボロい提案だと思う。天下り関連意外に深刻な問題なのは、行政スタッフの能力向上をどうするのかということだ。政府は過去と比較して日々複雑さを増す事項を取り扱うようになっている。そのためには、単に東大法学部を卒業したキャリア行政官だけではなく、官民からかき集めた多彩な専門性を持ったチームを形成し、全力で問題を解決していくことが必要なのだ。そのための公務員制度改革と考えることが、今求められることだと思う。
著者の原さんは、霞ヶ関の機能低下問題も指摘はしているが、官民人材交流以上の具体的な処方箋を提示していないことは多少残念に思った。リボルビングドアをどう作っていくか等、考えることは沢山あるように思う。原さんには、より広い意味での「機能する霞ヶ関」への処方箋も提示して欲しかったと思うのは、ちょっと贅沢だったかしら(笑)

書評:ロストシンボルは、おいらにとっては「ボール球」でした

今年2010年3月に発売になったダンブラウンの「ロスト・シンボル」は、ラングドン教授シリーズ第3作。今回はワシントンDCを舞台に、フリーメイソンの秘密に迫る内容。いつものように、スピード感溢れる速い展開。そして、ラングドンはいつも通り無理矢理謎解きをさせられる。出張中に飛行機やホテルで読むには最高のペースの良さだ。
しかしだ、しかしな、今回は「ロストシンボル」ってぐらいで、図形に関わる話が多くて、文字だけ追いかけていってもわかりにくいのよ(涙)さらに、Washington D.C. をよく知っていれば、建物の形状とか分かっていれば、地理関係がよく分かっていれば面白いのかもしれないが、これまた分かりにくい。そこはどこ?ベルトコンベヤの行き先は、あの街のどこよ。ってな感じでねぇ、欲求不満が溜まるの。地図を片手に読まないと、関係が全然わからん。
あとね、話の展開の仕方が、あまりに予想できる内容だったのが少し残念。フリーメイソンについては、米国でも、日本でも色々と書かれている書物がある。それらにちりばめられている様々な情報と断片を徹底して使って、色々な味を付けた感じの小説になっている。そのために、少し無理があるような展開なのだ。その無理さを、ラングドン教授に語らせる辺りが、少しガッカリしてますな。
ということで、。前作「ダビンチコード」よりも、おいらの評価では「下」だと思います。もっと上を期待していたおいらとしては、単行本上下2冊で4千円弱は、ちょっと高いっす。でも、念のため。普通の小説と比べれば、良い感じには仕上がっているのですよ。そこはそうなんだけどなぁ。まぁ、まずはダビンチコードを読んで頂いて、その後、本書を読めば意味が分かってくれるとおもうんですけどね。ちなみに、出張中に読むには、手頃でお勧め。おいらはアフリカ出張中に読みました。
ちなみに、純粋理性科学は興味をひいた。純粋理性科学研究所のホームページ、あります。

2010年4月24日土曜日

書評:柴田よしきのRIKOシリーズ

先日読んだ誉田哲也「ストロベリーナイト」は、なんとも不満足。でね、amazon とかで書評を探していたら、「ストロベリーナイト」は、実は柴田よしきのRIKOシリーズと酷似していて、しかもRIKOシリーズと比較すると、誉田のは出来が悪いというコメントがあった。なるほど。じゃぁ、その柴田よしきを読んでみるとするかと、amazon でまとめ買い。
  • RIKO -女神の永遠- (1995) / 第15回横溝正史賞、受賞作品
  • 聖母(マドンナ)の深き淵 (1998)
  • 月神の浅き夢 (1998)
が三部作となっていて、この順番に読むと良いようだ。警察小説という袴がつけられていたが、ネット上の書評では性愛小説とも言われているようだ。なんといっても女性小説家とは思えないぐらいエネルギッシュな表現も至る所に溢れているし、一方で繊細な表現も「なるほどね」って思わせるところがある。リズム感良く、沢山仕掛けられている伏線が楽しい。そして、どの話も「えっ!」と思わせる結末が待っている。確かに、上質な小説になっている。なるほど、色々な書評が、このシリーズをお薦めするのが分かるような気がしたよ。
推理小説でエンターテイメントで、楽しい時間が得られたよって感じで良いんじゃないかな。おいらは、飛行機で移動している間、機内で読み続けていた感じ。娯楽小説として、とてもお勧め。

2010年4月12日月曜日

PHD Commics って大好き

大学院に暮らす学生達と教授達の世界というのは、外部の人達からは全く分からないのは、日本でも米国でも大して変わらない。でもね、米国には、この世界を題材とした4コマ漫画がある。この漫画はインターネットでも読めるし、米国の大学での Campus Newspaper なんかでも掲載しているもので、結構有名になっているのね。
実際、中身は大学院生達の生活や、研究室での暮らしぶり、大学教授の横暴ぶりがコミカルに書かれているが、確かにそうだよなぁって思うものも多い。とても面白くて大好きなんだよね。
最近掲載されたものでお気に入りはこれだ。そうか、結婚と学位取得は類似性が高かったのか!
www.phdcomics.com 3/24/2010(本物のWebを読んでね)

書評:人間が消えた世界 / アラン・ワイズマン

地球という環境にとってみて、人間はがん細胞みたいなものである。循環型エコシステムを形成してきた地球は、人間の存在によって不調を訴え始めている。地球温暖化はその一例だろう。では、仮に地球上から一人も人間がいなくなったらどうなるのだろうか。この地球は再生するのか。そのように考えることで、逆に現在の環境問題の本質的課題を浮き彫りにしようとしたのが本書である。本書は誰もが読めるように平易な言葉遣いと説明がなされているが、実は学術書としても一流の仕事をして書き上げられている。つまり、事実と学術的研究成果に基づき書かれているのだ。本書を読破して気がつくのは、地球温暖化、あるいは、温室効果ガスの排出という問題も大きいが、それ以上に人間の活動によって環境中に排出される様々な人工的化合物の問題が大きいのではないかと気がつき始めるのだ。特に、莫大な量のプラスチック細片の環境滞留、成長し続ける太平洋上の広大なゴミ溜め、そしてこれから数万年付き合わざるを得ない放射性廃棄物。いわゆる廃棄物管理 waste management を地球規模でどのように実装し、どのように目標を設定、達成するかが大きな課題だと気付くのだ。
地球環境問題に興味がある方は、是非ご一読を。

2010年4月11日日曜日

書評:キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』

日本人の宗教観は「いい加減」なものだ。結婚式はキリスト教式で行い、葬式は仏教式で行う。新年を祝う時には、神道(神社)にお参りし、儒教の影響をとても受けた道徳観も併せ持つ。我が国民は、八百万(やおよろず)の神々との関係が自然なのだろう。実際、自然と対峙して仕事をしている杣人たる父親を長年見ていると、自然への畏れを持ち、自然の所業は多くの神々の怒りの表れと考え、自然を鎮めるために多くの神々を祭るのが普通であった。そして、それは他の人達とも自然に共有される概念であった。日本人の考え方の深層には、自然への畏れを起源とする多神教的な認識回路が機能しているように思う。

一方、欧州民族においては、キリスト教による教化と社会統制が長年行われてきたために、二元論的な価値観(善か悪か)と、価値観に合致しない異なる考え方に対する排除の原理が組み込まれている。このような状況は良いのだろうか。

著者であるニーチェは、本書において、徹底したキリスト教批判を展開する。すなわち、キリスト教は不合理、矛盾、傲慢、ご都合主義が充満したもので、しかも、異なる価値観を排除し、原理主義的行動を良しとする宗教であることを、合理的に示している。我々、アジア系宗教に多い、多神教を基盤とする宗教とは全く相容れないものであることも述べる。「仏教は優れている」とも言う。そして、キリスト教最大の問題は「退廃」を助長することだと。

元々「反キリスト」は、堅苦しい日本語訳の書籍が存在し、大学1,2年生にとって、哲学、あるいは思想史の授業で必読とされている一冊だ。欧州ニヒリズムを理解するために、必ず読めと言われる。しかしながら、その表現は、学生の読破力を試すどころか、10頁も読むと既に「どうでもええわい」という気分にさせ、それ以後は最良の睡眠導入剤になるのだ。さて、本書は現代語訳と銘打たれており、苦痛無く読みやすい日本語として構成されている。当然、普通の小説やビジネス書を読むように、すいすいと読み進むことができる。その意味で、ニーチェの主張を短時間に理解するのには素敵な本である。
もしも、興味が尽きなければ、その後で、本格的な翻訳を購入すれば良いだろう。


ちなみに、本格的翻訳ものは、次の二つだ。ちくま書房出版のものはペーター・ガースト版の翻訳、白水社のものはデ・グロイター版の翻訳である。
 

2010年4月5日月曜日

書評:「音漬け社会」と日本文化 / 中島義道&加賀野井秀一

中島義道の「うるさい日本の私」(新潮社)を読んだのは、もう10年程前だろうか。街中に溢れかえる音には、かなり辟易としていた私にとって、かの著作は何とも溜飲を下げるものであった。読み進める度に「そう、そうなんだよ、そう!」とうなずくことがとても多かった。この国では、こんなことをしても全く意味が無いと思うようなアナウンスが、エンドレステープで何度も何度も送り出される。空港の保安検査場は、まさにそのような場所だ。例えば「ペットボトル、液体の入ったビンは出せ。コンピュータは取り出せ。底の厚い靴は脱げ。」というアナウンスは、関西国際空港国内線保安検査場では、エンドレステープで流され続ける。その前に、いくつもの説明書きが看板で出されているというのに。駅でも、ビルの入り口でも、とにかく「ああせい、こうせい」と五月蠅いのだ。しかし、そういう感覚は、中島が述べるように希なのかもしれない。誰もが文句を言わないし、それを五月蠅いとも思わないようなのだ。

昨年、書店店頭に並べられた本書を手にしたのは、全くの偶然からだった。海外出張前の空港で、旅行中に読む本を物色していた時の事だった。10年ほど前に怒っていた欧州文化を対象とする哲学者「中島」はどうなったのかが、俄然気になった。10年前から考えると、ますます五月蠅いアナウンスは巷に溢れかえり、一段と丁寧に、かつ、沢山のことを言うようになっている。アナウンスそのものも意味不明なものも多い。明らかに中島の活動は成果を上げられなかったのだ。じゃぁ、彼はどのように総括するのかが気になるのだ。
本書は、やはり欧州文化を対象として活躍する哲学者である加賀野井との往復書簡の形式をとり、議論を組み立てている。そして、この騒音が社会に無批判に受け入れられているのは、日本社会の特性に、まさに「はまってしまった」現象として解き明かされていく。特に、責任回避のためのツールであり、また、騒音をまき散らすことが現実に「善いこと」と解釈される、公共性を持ったメッセージング手法が、個別摩擦を事前回避する方法として編み出されてしまったこと。そして、それがコミュニティに対する和を維持する一つの有力な方法だと考えられていることを議論の中で明らかにしていくのだ。そして、最終的に、この音を社会から減らすのは到底不可能に近い所業であることを明らかにしてしまう。つまり「日本人よ、変われ!」と言っているようなものだからだ。
怒れる中島は何処に行ってしまったのか?と訝りたくなるほど、彼の論理は、自らの敗北を認めつつ、この日本社会が持つ根深い病巣を明らかにしてしまうのだ。大変興味深い論を展開している。
中島の「社会騒音論」を読んだことのない人は、先の一冊「うるさい日本の私」を読んでから、本書を読むことをお薦めする。

 

2010年4月4日日曜日

書評:大暴落1929 、グローバル恐慌 - 金融暴走時代の果てに

1955年に初版発行された「大暴落1929」は、米国ニューヨーク証券取引所で起きた1929年10月24日の「暗黒の木曜日」と称された大暴落は何故起きたのかを、経済学者ガルブレイズが克明に解説する。恐慌とは、実体経済と、金融活動が仮定している経済規模の乖離が大きくなりすぎて、その乖離を暴力的に是正する状況を意味する。1929年の大暴落は、不動産価値が無限に上昇するという幻想の元で作り出された不動産バブル、会社出資型投資信託という新しいツールの登場と高いレバレッジ率を誇った売り込み、金融機関同士が出資もたれ合いをしていた状況、高いコールレートの存在などを通じて、ニューヨーク証券取引所に世界中の資金が集中したところから始まる。そして、まさに数年間の時間を掛けて、実体経済から乖離された金融商品取引環境が作りだされたのだ。さらに、レバレッジは右肩上がりにも効くが、右肩下がりにも同じく大きなインパクトで下げを喰らう。結果として、一度売りに転じたところで、ドンドンと雪だるま的に市場は下落し、同時に追い証を求められた投資家が株を売りという最悪の雪崩現象を生み出した。そして結果としては、一日にして約1290万株が売られ、最悪の暴落を記録する。さらに、その後、市場は下げまくり、金融市場の不調は、資金調達の困難を広く生み出し、結果として実体経済にも大きな影響を広げる。1000社を越える銀行が潰れ、経済も大きく収縮。その後10年間、米国経済は復活に時間を使うことになってしまう。
本書は、大暴落が起きるメカニズムを分かりやすく、かつ体系的に解説する。そして、この雪崩を引き起こしてしまった状況が、商業銀行と投資銀行の垣根が無かったことや、コールレートの制御をFRBが持っていなかったこと、さらには、投資規制が適切に行われてなかったことを明らかにする。1929年以降に、これらのメカニズムは改善されたことも述べている。また、金本位制を引いたドルのために、本当は市場に資金供給が潤沢になされなければならなかった時に、ドルが大量に国外に流出したために、逆に資金供給を引き締めなければならなかったこともメカニズムの不備として述べている。これは、その後の管理通貨制度への道を開いたのだった。
ガルブレイズの述べる言葉は大変意味深い。
  • 本当に実態が悪くなっている時に人は、「状況は基本的に健全である」という言葉を口にする。
  • 人は確信がもてないときほど独断的になりやすい。
  • 何かをするためでなく、何もしないために開く集まりがある。
  • 人間は知っていることばかりを話すのでもなければ、知らないことばかり話すのでもなく、知っているつもりだが、実は知らないことを話すことが多い。
もう一つ重要なのは、1929年大暴落を契機に、恐慌を防ぐために色々な制度を作ってきた。しかし、この制度は、実は1971年のニクソンショックを契機に撤廃されてきている。この事は、本書では述べていないので、注意すべきである。



さて、浜矩子先生の「グローバル恐慌 - 金融暴走時代の果てに 」は、ガルブレイズの「大暴落1929」を読破してから読むと、さらに理解が深まる良い本だ。
2008年リーマンショックは、世界中の金融市場と金融機関を巻き込んで、100年に一度の最悪の状況を生み出している。これを世界同時金融危機と呼ぶことが多いが、浜は、これこそがグローバル恐慌そのものであると主張する。
本書では、この恐慌が1971年のニクソンショックにまで原因が遡ることができること、米国のインフラ頼みの成長政策と金融規制緩和が原因にあること、さらには、バブル崩壊からの日本円のゼロ金利政策が今回の恐慌の大きな原因であることを述べる。債権の証券化は、単に世界中にリスクをばらまく手法であったと、バッサリ切り捨てる。2009年当初の状況を踏まえ、この恐慌がどうなるのかを見てるのが本書である。さらに、日本円は、いまやグローバル経済の「隠れ基軸通貨」になっていることも述べる。
本書を読了してショックなのは、この恐慌から世界経済が復活するには10年掛かると述べている。日本は、既に「失われた10年」を体験し、そのままグローバル恐慌からの復帰10年、つまり合計で20年不況を経験することになるという話だ。覚悟はしているが、やはり気分は凹むなぁ。

2010年3月10日水曜日

書評:差別と日本人

正直に言って、この本を読んで野中氏の考え方に同調するとか、辛氏の議論に感心するとかいうことはない。しかし、本書を通しての発見はあった。これが本書のバリューだと思う。
私にとって最大の発見は、「差別は歴史の蓄積の中で作り出されるものではなく、必要だと考えている奴によって現在に作り出されるのだ。」という辛氏の主張だ。差別は、必要だと思っている奴が、恣意的に作り出すものであるのだ。自然発生的に生まれるものではない。したがって、野中氏がいうように、差別は解決可能な社会課題であるという認識からアプローチすることが大切なのだ。これは、いまの自分にとって、とても価値ある発見だったと思う。
例えば、役人社会には、差別に近い行為が沢山ある。高級官僚は、幾度となく「君みたいな民間人が」という発言を繰り返して、私を区別してきた。情報セキュリティ補佐官に着任するにあたって、警察関係者がギャーギャー注文を付けたことから、非常勤ながら公務員発令も受け、国家公務員法によって守秘義務も掛けられているというのに、高級官僚は「君は公務員とは違う。民間人なのだから」と言い続け、排除を続けるのだ。これは、私を「民間人」として区別して排除することにより、同時に役人自身が持つ権威性等の既得権益を守ることに奔走しているのだと考えることができよう。だから、排除の方法として区別(社会性を持つと差別)をして、結果として彼らの利権を守る。官尊民卑という差別道具は、(彼らにとって)利権確保の意味があるのだ。
そして海堂氏の「死因不明社会」を合わせて考えれば、役人の不作為も、結果として選民意識、差別体質の現れなのだろう。
ただ、これは当然解決可能な課題だ。そして、彼らが持っていると勘違いしている「利権」を、ちゃんと置き換えてやればよい。民主党が言う政治主導というメカニズムがちゃんと根付けば、そのような「利権」も形骸化していくだろう。そうすれば、実は、色々な問題を解決できる可能性は多分にあるのではないか。そういうことも考えさせられた一冊だ。
発見がある本として、お勧めだと思う。また、自分の中にある差別意識をチェックする本としても利用価値はある。まぁ、中身そのものには、賛否両論もあるだろう。それは仕方が無い。現代日本人の心の奥底に置かれている問題に触れている。受け入れられる人と、反発する人の両方がいるのは仕方が無い。ただ、この本によって、心がどちらの方向に揺さぶられたとしたら、自分の心を素直に見つめ直す時間を持つのが良いのではないか。

書評:死因不明社会

作者によれば、小説「チームバチスタの栄光」は、Ai (Autopsy Imaging) を社会に定着させたいがために書かれた小説だそうな。
著者である海堂は、実は現役の病理医であり、わが国の死亡検案(いわゆる検死)における課題をとり上げる。この国では、死因を正しく調べ、適切に死亡検案書を作成する環境がないことを指摘する。本来であれば、監察医制度が全国に展開していれば、このようなことは無かった。しかし、現実には全国 6都市に監察医制度が限定され、結局大多数の検案は医者に酔って行われる。さらに、本当に死因を追求するためには、死亡時に各種検査を行ったり、解剖を行うことが必要である。しかし、現状では解剖は殆ど行われない。しかも、解剖したとしても死因を正しく特定できるかどうかについて、医者の側でも3割程度の誤診があると認めている。さらに、解剖に携わることができる医者は少なく、また、対応出来る病院も少ないと告発する。わが国は解剖率はたった3%しかない。米国では60%もの解剖率が維持されているのに。
このような状況は、公衆衛生の観点から言えば、結局何が人を死に至らしめているかが分からない状況であり、結局、医療政策の重点化やポートフォリオの組み直しについて、合理性があるかも分からないということになる。さらに、医療行為そのものについても、結局それまでの治療効果はあったのかも分からない。こんな分からないことが多い状況は医療の改善にもならない状況である。
このような状況は、実は、厚生労働省の意識的な不作為によって生まれてきたと厳しく糾弾する。さらに、役所の無知、政治家の無知によって、この課題は放置される。
ただ、問題を指摘するだけなら、誰でもできる。海堂は、その解決方法を提示する。それが、死亡時医学検索の一般化、その中で、特に Ai という画像診断技術を使った、死亡時の全身画像検索を実施し、さらに本当に必要な場合、部分解剖を試みることを一般化すれば、今のような状況は大幅に改善されると提案する。
本書は2007年に出版され、関係者の間では衝撃の一冊だったらしい。しかし、まだまだ状況は変わらない。
本当にこの国は変だ。解決方法が提示されており、しかも、効果も計測できている。あとは、どう実装するかを考えればいいのに、役人は検討すらしない。もしも問題があるなら、その実装検討の中で、ちゃんと問題点を指摘すればよいのだ。それすらしない役人の不作為は、本当に問題だ。
今の官僚制度は、役人が「公僕」であり、同時に政策の社会実装を考える「専門家集団」であることが前提になっている。しかし、現実はこの二つの条件も満足しない、単なる「利権維持システム構築」を生業にしている「給料泥棒」が沢山いることも事実だ。少なくとも、人の生き死にに関わる厚生労働省の役人は、少し真面目に考えた方が良い。御用学者と組んで、利権維持に奔走する厚労役人は数多い。おいら自身の経験の中でも、そういう輩と出会ったこともある。本当にどうなっているんだと。本書を読んで、中身以上に、役人の不作為にうなずき続ける一冊でもあった。

海堂が最後に示している一言は、とても示唆に富む言葉だ。そして、本当に幹部役人にぶつけたい!
無知は罪である。そして無知とは、考えようとしない怠惰の中に棲息する。

 

2010年2月6日土曜日

書評:文房具は素敵!片岡義男さんのマニアぶりに感動

小学校の時以来、鉛筆と消しゴムのセットを持ち歩くということが大好きだった。三菱鉛筆の UNIシリーズを使うのが嬉しかった。また、どんなノートを使おうかって考えるのも好きだった。高校の時に、静岡大学工学部の生協に行って、大学ノートを大量に購入して統一感をもって使っていた。ロットリングの製図ペンもシリーズで収集した。最近は、Moleskin の手帳。文房具は、何歳になっても心を捉えるのだ。その喜びを素直に表現して、これでもかっていうぐらい見せつける本。こんな本を読んだら、早速東急ハンズ、LOFT、ITOYAに行きたくなるではないか。あなたの心を「驚くぐらい強い力で」惹きつける本です。お薦めです。

2010年1月30日土曜日

エリート教育についての考察

大学関係のじいさま達が、しばしば「日本には真のエリート教育が存在しない。だから問題だ。」と発言される。
エリートとは、社会システムの上位を占める集団で、社会に対して指導的な役割を果たす人である。当然、その生成過程では、試験や訓練といった様々な選別プロセスを経て、厳選されて教育を受けてきた人である。そして、現場においてリーダーシップを発揮し、自身の専門性とスキルを高め、社会の変革と発展を導く。エリートは、官僚、実業、法曹、文化の領域で存在し、いわゆるエリート層を形成してきた。
日本におけるエリートは、学歴を物差しにして判断する人が多い。例えば、東京大学法学部を卒業して、役所や大企業に入り、その後海外留学をしてMBAなりを取得する。そういう人はエリートだと認めてしまうのだ。しかし、学歴はあくまでも指標の一つであり、本当に問題なのは、その教育の先に各人に実現されるスキルとは何かが語られていないことだ。エリート候補生に提供される教育の中で、どんなスキルが獲得できれば本当にエリートとなるのだろうか。
私は、獲得が期待されているスキルには、専門性の高いスキルと、その先にある共通的なものがあると考える。
専門性の高いスキルというのは、完全に領域に依存して決められる。例えばMBAを取得すれば、経営学教育で与えられる知識や知見が獲得できる。法学修士を取得すれば、同様に法制度についての専門的な知識と、その活用方法についての一定の専門的スキルが与えられる。これらは、どの領域の教育を受けるかで多種多様だ。
さらに、専門性の高いスキル付与のための教育を俯瞰すると、その根底には、論理的に物事を考え、解決方法を生み出す能力を付与することを目標としていることも分かる。これが共通的なものではないかと思うのだ。すなわち、エリート教育では、難しい問題に取組み、その難しい問題に対して合理的な解決方法を与える能力を獲得してもらうことを目標にしていると考えても良いのではないか。凡人が解けない難しい問題を解決することにより、社会の発展を促す。問題解決プロセスにおいて、単独では解決できないプロセスを率いることで、リーダーシップを発揮する。まさに、エリートとは、難しい問題を解くことが求められていると考えることが出来るのではないか。
私は、エリート=複雑な問題の解決者と理解するのが良いのではないかと考える。
さて、ここ数年間、内閣官房で行政に関わる活動をしていて感じるのが、この国には難しい複雑な問題が山積しているにもかかわらず、その問題を難しいまま解かないことが多い、ということだ。問題の認知はするものの、その問題の枝葉を刈り取り、時には幹も削り、単純化して、簡単な問題に変換してしまうことが横行している。そして、その問題すら解かずに放置していることも多数発見できる。枝葉にはリアリティがある。問題は解決して、やっと一人前。この国のエリート層と言われている人達が多数関与しているにも関わらず、その集団において、複雑な問題を解く能力が、落下の一途を辿っているように思われる。
これは、官僚だけではなく、政治家にも共通している。素晴らしい教育を受けた政治家が、解決すべき社会問題に肉薄するプロセスで、単純化を徹底して行い、結局問題を解かないということが横行しているのだ。しかも、複雑な問題を理解する能力すら欠如していることも多い。「学校秀才」型政治家より、皮膚感覚で問題解決に取り組んできた「現場叩き上げ」型政治家の方が、格段に問題解決能力が高いことも、しばしばある。
選別を経て大学に入学した素晴らしい学生に対して教育を施し、「学校秀才」あるいは所謂インテリを作り出したとしても、彼らは複雑な問題が解けないような、本当に情けない状況になってきている。つまり、日本の大学は、真のエリートを生み出せないシステムになってきている。そのことを嘆いて、じい様達は「日本には真のエリート教育が存在しない」と言っているのではないか。
では、原点に立ち返って、「複雑な問題の解決者」を生み出すにはどうしたらよいのだろうか。そのための教育プロセスとは何であろうか。さらに、システマチックに、知見の移転とスキル向上のための訓練が設計できるだろうか。これは、中々難しいものがある。なにせ、複雑な問題を解くために動員される知見、スキルは、多種多様にわたり、独りで解ける問題は年々減少している。そのため、従来のエリート像では当てはまらない人材が必要にもなってきているのだ。これは、今の大学教育、大学院教育で、本当に真面目に考えなければならない状況に思う。

2010年1月6日水曜日

書評:信仰が人を殺すとき

わたしの人生には、宗教的要素が殆ど無い。もちろん、わが国特有の世俗化した仏教との接点はある。特に母親を亡くしてからは、葬儀等の儀式などで寺との関係が強くなった。しかし、それは先祖代々からの仏教との関係と何ら変わりはなく、特に故人を取り巻くコミュニティを巻き込んだ葬祭実施による世俗的満足感を与え、そして、そのコミュニティと個人が持つ死に対する基本的な恐怖を和らげるための効果が中心的である。つまり、個人が持つ死と向き合う苦しみに対して、それを緩和するために仏教が触媒として働いている構造。我々の生活からは、仏教は従属的である。これが、わたしを含めた、大多数の日本人の感覚であろう。

しかし、宗教が生活の基本線を規定し、その中で自らの生活を組み立てる、積極的な信者を有する宗教も、世界に数多く存在する。宗教に依存して、いわゆる判断の絶対的指標を他者から与えられた状態で暮らすわけだ。個人の判断を放棄し、人生を楽に生きる道である。確かに、世俗的宗教であっても「死」という苦しみから、各個人が持つ恐怖感を緩和し、そして苦しい人生を生きていくためのヒントを与える。それならば、生活の全てを宗教の判断基準に依存すれば、主体的に考え結論を出す苦しみをすることなく暮らしていけることになる。確かに楽な生き方だ。これが、宗教に帰依した信仰者の暮らしである。これに対しては、人間は元来弱いものであるから仕方がないという立場もあり、また、問題に対して向き合うことをしない主体性の無い暮らしは危険であるという立場もあり得る。ちなみに、わたしは後者の立場を貫いて来ている。

さて、キリスト教、イスラム教、仏教は世界の三大宗教であり、同時に世俗化が進んでいない形でも広く存在する宗教でもある。さらに、これら宗教には、多数の宗派が存在し、宗派毎に信仰の実装も異なる。中には、原理主義的な宗派も存在する。

本書が取り上げているのは、近年欧米で急速に成長しているキリスト教系宗派である、いわゆるモルモン教である。モルモン教は、19世紀中盤に米国においてジョセフ・スミスによって創設された、比較的若い宗派であり、既存のキリスト教とは異なった教義がある。一夫多妻制、啓示による行動、血の贖罪と「力有るもの」の概念は、その最たるものだ。モルモン教には、実はモルモン教原理主義者が存在している。そして、教義に忠実な生活を行うことを目標としている。

このモルモン教原理主義者であるラファティ兄弟が1984年に起こした殺人事件は、実は信仰によって引き起こされた殺人である。この殺人が何故起きてしまったかを掘り起こしていくことで、モルモン教の成立から、その信仰の構造における問題、さらに、信仰に帰依した人生が持つ脆弱性を指摘する。さらに本書は、モルモン教だけではなく、他の宗教における原理主義、あるいは、信仰帰依者が持つ本質的な問題を、多生間接的ながら明らかにしていく。つまり、価値判断の他者性を意識することなく帰依することの危険性と、しかし人間であれば誰もが持ちうるほどの「死の恐怖」の強さによる宗教への逃避の現状を指摘するのだ。

単行本で454頁、縦書き2段組でフォントサイズも小さい。つまり、思い切り文章が詰まっている単行本である。本書を手にすることになったのは、全く偶然であった。John Krakauer は、"Into the Wild", "Into the Thin Air" 共にベストセラーであり、わたしも数年前に読了している。ノンフィクション作家として、強烈な切れ味をもつ。最近は彼は何を書いているのかをクリックしていて見つけた。しかも、自転車に乗って布教活動をする、アイドル時代に斉藤由貴さんも帰依していた、謎の宗教「モルモン教」を解説しているではないか。ということで、早速購入してみたのだ。読み始めて直ぐに思ったのは「これは何だ!?」という目眩。信仰が人を殺すという事実。そして、従来の知識で知っていた「禁欲のモルモン教」とは全く異なる信仰。このリアリティを明確にしていくプロセスは、まさに人間と宗教の対峙の仕方に対する根源的疑問を呈示し続ける。つまり「第三者価値尺度への依存は、苦しくも幸せな人間的な生き方を否定するのではないか」、あるいは簡単にいえば「宗教は麻薬であるか」ということ。そして、「宗教は妄想であるのか?」という疑問。この疑問について、読者それぞれが対峙させられ、考えさせられる、ノンフィクション作家である John Krakauer の渾身の作品。読むのが大変だけど、とてもお薦めです。