2010年1月30日土曜日

エリート教育についての考察

大学関係のじいさま達が、しばしば「日本には真のエリート教育が存在しない。だから問題だ。」と発言される。
エリートとは、社会システムの上位を占める集団で、社会に対して指導的な役割を果たす人である。当然、その生成過程では、試験や訓練といった様々な選別プロセスを経て、厳選されて教育を受けてきた人である。そして、現場においてリーダーシップを発揮し、自身の専門性とスキルを高め、社会の変革と発展を導く。エリートは、官僚、実業、法曹、文化の領域で存在し、いわゆるエリート層を形成してきた。
日本におけるエリートは、学歴を物差しにして判断する人が多い。例えば、東京大学法学部を卒業して、役所や大企業に入り、その後海外留学をしてMBAなりを取得する。そういう人はエリートだと認めてしまうのだ。しかし、学歴はあくまでも指標の一つであり、本当に問題なのは、その教育の先に各人に実現されるスキルとは何かが語られていないことだ。エリート候補生に提供される教育の中で、どんなスキルが獲得できれば本当にエリートとなるのだろうか。
私は、獲得が期待されているスキルには、専門性の高いスキルと、その先にある共通的なものがあると考える。
専門性の高いスキルというのは、完全に領域に依存して決められる。例えばMBAを取得すれば、経営学教育で与えられる知識や知見が獲得できる。法学修士を取得すれば、同様に法制度についての専門的な知識と、その活用方法についての一定の専門的スキルが与えられる。これらは、どの領域の教育を受けるかで多種多様だ。
さらに、専門性の高いスキル付与のための教育を俯瞰すると、その根底には、論理的に物事を考え、解決方法を生み出す能力を付与することを目標としていることも分かる。これが共通的なものではないかと思うのだ。すなわち、エリート教育では、難しい問題に取組み、その難しい問題に対して合理的な解決方法を与える能力を獲得してもらうことを目標にしていると考えても良いのではないか。凡人が解けない難しい問題を解決することにより、社会の発展を促す。問題解決プロセスにおいて、単独では解決できないプロセスを率いることで、リーダーシップを発揮する。まさに、エリートとは、難しい問題を解くことが求められていると考えることが出来るのではないか。
私は、エリート=複雑な問題の解決者と理解するのが良いのではないかと考える。
さて、ここ数年間、内閣官房で行政に関わる活動をしていて感じるのが、この国には難しい複雑な問題が山積しているにもかかわらず、その問題を難しいまま解かないことが多い、ということだ。問題の認知はするものの、その問題の枝葉を刈り取り、時には幹も削り、単純化して、簡単な問題に変換してしまうことが横行している。そして、その問題すら解かずに放置していることも多数発見できる。枝葉にはリアリティがある。問題は解決して、やっと一人前。この国のエリート層と言われている人達が多数関与しているにも関わらず、その集団において、複雑な問題を解く能力が、落下の一途を辿っているように思われる。
これは、官僚だけではなく、政治家にも共通している。素晴らしい教育を受けた政治家が、解決すべき社会問題に肉薄するプロセスで、単純化を徹底して行い、結局問題を解かないということが横行しているのだ。しかも、複雑な問題を理解する能力すら欠如していることも多い。「学校秀才」型政治家より、皮膚感覚で問題解決に取り組んできた「現場叩き上げ」型政治家の方が、格段に問題解決能力が高いことも、しばしばある。
選別を経て大学に入学した素晴らしい学生に対して教育を施し、「学校秀才」あるいは所謂インテリを作り出したとしても、彼らは複雑な問題が解けないような、本当に情けない状況になってきている。つまり、日本の大学は、真のエリートを生み出せないシステムになってきている。そのことを嘆いて、じい様達は「日本には真のエリート教育が存在しない」と言っているのではないか。
では、原点に立ち返って、「複雑な問題の解決者」を生み出すにはどうしたらよいのだろうか。そのための教育プロセスとは何であろうか。さらに、システマチックに、知見の移転とスキル向上のための訓練が設計できるだろうか。これは、中々難しいものがある。なにせ、複雑な問題を解くために動員される知見、スキルは、多種多様にわたり、独りで解ける問題は年々減少している。そのため、従来のエリート像では当てはまらない人材が必要にもなってきているのだ。これは、今の大学教育、大学院教育で、本当に真面目に考えなければならない状況に思う。

2010年1月6日水曜日

書評:信仰が人を殺すとき

わたしの人生には、宗教的要素が殆ど無い。もちろん、わが国特有の世俗化した仏教との接点はある。特に母親を亡くしてからは、葬儀等の儀式などで寺との関係が強くなった。しかし、それは先祖代々からの仏教との関係と何ら変わりはなく、特に故人を取り巻くコミュニティを巻き込んだ葬祭実施による世俗的満足感を与え、そして、そのコミュニティと個人が持つ死に対する基本的な恐怖を和らげるための効果が中心的である。つまり、個人が持つ死と向き合う苦しみに対して、それを緩和するために仏教が触媒として働いている構造。我々の生活からは、仏教は従属的である。これが、わたしを含めた、大多数の日本人の感覚であろう。

しかし、宗教が生活の基本線を規定し、その中で自らの生活を組み立てる、積極的な信者を有する宗教も、世界に数多く存在する。宗教に依存して、いわゆる判断の絶対的指標を他者から与えられた状態で暮らすわけだ。個人の判断を放棄し、人生を楽に生きる道である。確かに、世俗的宗教であっても「死」という苦しみから、各個人が持つ恐怖感を緩和し、そして苦しい人生を生きていくためのヒントを与える。それならば、生活の全てを宗教の判断基準に依存すれば、主体的に考え結論を出す苦しみをすることなく暮らしていけることになる。確かに楽な生き方だ。これが、宗教に帰依した信仰者の暮らしである。これに対しては、人間は元来弱いものであるから仕方がないという立場もあり、また、問題に対して向き合うことをしない主体性の無い暮らしは危険であるという立場もあり得る。ちなみに、わたしは後者の立場を貫いて来ている。

さて、キリスト教、イスラム教、仏教は世界の三大宗教であり、同時に世俗化が進んでいない形でも広く存在する宗教でもある。さらに、これら宗教には、多数の宗派が存在し、宗派毎に信仰の実装も異なる。中には、原理主義的な宗派も存在する。

本書が取り上げているのは、近年欧米で急速に成長しているキリスト教系宗派である、いわゆるモルモン教である。モルモン教は、19世紀中盤に米国においてジョセフ・スミスによって創設された、比較的若い宗派であり、既存のキリスト教とは異なった教義がある。一夫多妻制、啓示による行動、血の贖罪と「力有るもの」の概念は、その最たるものだ。モルモン教には、実はモルモン教原理主義者が存在している。そして、教義に忠実な生活を行うことを目標としている。

このモルモン教原理主義者であるラファティ兄弟が1984年に起こした殺人事件は、実は信仰によって引き起こされた殺人である。この殺人が何故起きてしまったかを掘り起こしていくことで、モルモン教の成立から、その信仰の構造における問題、さらに、信仰に帰依した人生が持つ脆弱性を指摘する。さらに本書は、モルモン教だけではなく、他の宗教における原理主義、あるいは、信仰帰依者が持つ本質的な問題を、多生間接的ながら明らかにしていく。つまり、価値判断の他者性を意識することなく帰依することの危険性と、しかし人間であれば誰もが持ちうるほどの「死の恐怖」の強さによる宗教への逃避の現状を指摘するのだ。

単行本で454頁、縦書き2段組でフォントサイズも小さい。つまり、思い切り文章が詰まっている単行本である。本書を手にすることになったのは、全く偶然であった。John Krakauer は、"Into the Wild", "Into the Thin Air" 共にベストセラーであり、わたしも数年前に読了している。ノンフィクション作家として、強烈な切れ味をもつ。最近は彼は何を書いているのかをクリックしていて見つけた。しかも、自転車に乗って布教活動をする、アイドル時代に斉藤由貴さんも帰依していた、謎の宗教「モルモン教」を解説しているではないか。ということで、早速購入してみたのだ。読み始めて直ぐに思ったのは「これは何だ!?」という目眩。信仰が人を殺すという事実。そして、従来の知識で知っていた「禁欲のモルモン教」とは全く異なる信仰。このリアリティを明確にしていくプロセスは、まさに人間と宗教の対峙の仕方に対する根源的疑問を呈示し続ける。つまり「第三者価値尺度への依存は、苦しくも幸せな人間的な生き方を否定するのではないか」、あるいは簡単にいえば「宗教は麻薬であるか」ということ。そして、「宗教は妄想であるのか?」という疑問。この疑問について、読者それぞれが対峙させられ、考えさせられる、ノンフィクション作家である John Krakauer の渾身の作品。読むのが大変だけど、とてもお薦めです。