2010年4月24日土曜日

書評:柴田よしきのRIKOシリーズ

先日読んだ誉田哲也「ストロベリーナイト」は、なんとも不満足。でね、amazon とかで書評を探していたら、「ストロベリーナイト」は、実は柴田よしきのRIKOシリーズと酷似していて、しかもRIKOシリーズと比較すると、誉田のは出来が悪いというコメントがあった。なるほど。じゃぁ、その柴田よしきを読んでみるとするかと、amazon でまとめ買い。
  • RIKO -女神の永遠- (1995) / 第15回横溝正史賞、受賞作品
  • 聖母(マドンナ)の深き淵 (1998)
  • 月神の浅き夢 (1998)
が三部作となっていて、この順番に読むと良いようだ。警察小説という袴がつけられていたが、ネット上の書評では性愛小説とも言われているようだ。なんといっても女性小説家とは思えないぐらいエネルギッシュな表現も至る所に溢れているし、一方で繊細な表現も「なるほどね」って思わせるところがある。リズム感良く、沢山仕掛けられている伏線が楽しい。そして、どの話も「えっ!」と思わせる結末が待っている。確かに、上質な小説になっている。なるほど、色々な書評が、このシリーズをお薦めするのが分かるような気がしたよ。
推理小説でエンターテイメントで、楽しい時間が得られたよって感じで良いんじゃないかな。おいらは、飛行機で移動している間、機内で読み続けていた感じ。娯楽小説として、とてもお勧め。

2010年4月12日月曜日

PHD Commics って大好き

大学院に暮らす学生達と教授達の世界というのは、外部の人達からは全く分からないのは、日本でも米国でも大して変わらない。でもね、米国には、この世界を題材とした4コマ漫画がある。この漫画はインターネットでも読めるし、米国の大学での Campus Newspaper なんかでも掲載しているもので、結構有名になっているのね。
実際、中身は大学院生達の生活や、研究室での暮らしぶり、大学教授の横暴ぶりがコミカルに書かれているが、確かにそうだよなぁって思うものも多い。とても面白くて大好きなんだよね。
最近掲載されたものでお気に入りはこれだ。そうか、結婚と学位取得は類似性が高かったのか!
www.phdcomics.com 3/24/2010(本物のWebを読んでね)

書評:人間が消えた世界 / アラン・ワイズマン

地球という環境にとってみて、人間はがん細胞みたいなものである。循環型エコシステムを形成してきた地球は、人間の存在によって不調を訴え始めている。地球温暖化はその一例だろう。では、仮に地球上から一人も人間がいなくなったらどうなるのだろうか。この地球は再生するのか。そのように考えることで、逆に現在の環境問題の本質的課題を浮き彫りにしようとしたのが本書である。本書は誰もが読めるように平易な言葉遣いと説明がなされているが、実は学術書としても一流の仕事をして書き上げられている。つまり、事実と学術的研究成果に基づき書かれているのだ。本書を読破して気がつくのは、地球温暖化、あるいは、温室効果ガスの排出という問題も大きいが、それ以上に人間の活動によって環境中に排出される様々な人工的化合物の問題が大きいのではないかと気がつき始めるのだ。特に、莫大な量のプラスチック細片の環境滞留、成長し続ける太平洋上の広大なゴミ溜め、そしてこれから数万年付き合わざるを得ない放射性廃棄物。いわゆる廃棄物管理 waste management を地球規模でどのように実装し、どのように目標を設定、達成するかが大きな課題だと気付くのだ。
地球環境問題に興味がある方は、是非ご一読を。

2010年4月11日日曜日

書評:キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』

日本人の宗教観は「いい加減」なものだ。結婚式はキリスト教式で行い、葬式は仏教式で行う。新年を祝う時には、神道(神社)にお参りし、儒教の影響をとても受けた道徳観も併せ持つ。我が国民は、八百万(やおよろず)の神々との関係が自然なのだろう。実際、自然と対峙して仕事をしている杣人たる父親を長年見ていると、自然への畏れを持ち、自然の所業は多くの神々の怒りの表れと考え、自然を鎮めるために多くの神々を祭るのが普通であった。そして、それは他の人達とも自然に共有される概念であった。日本人の考え方の深層には、自然への畏れを起源とする多神教的な認識回路が機能しているように思う。

一方、欧州民族においては、キリスト教による教化と社会統制が長年行われてきたために、二元論的な価値観(善か悪か)と、価値観に合致しない異なる考え方に対する排除の原理が組み込まれている。このような状況は良いのだろうか。

著者であるニーチェは、本書において、徹底したキリスト教批判を展開する。すなわち、キリスト教は不合理、矛盾、傲慢、ご都合主義が充満したもので、しかも、異なる価値観を排除し、原理主義的行動を良しとする宗教であることを、合理的に示している。我々、アジア系宗教に多い、多神教を基盤とする宗教とは全く相容れないものであることも述べる。「仏教は優れている」とも言う。そして、キリスト教最大の問題は「退廃」を助長することだと。

元々「反キリスト」は、堅苦しい日本語訳の書籍が存在し、大学1,2年生にとって、哲学、あるいは思想史の授業で必読とされている一冊だ。欧州ニヒリズムを理解するために、必ず読めと言われる。しかしながら、その表現は、学生の読破力を試すどころか、10頁も読むと既に「どうでもええわい」という気分にさせ、それ以後は最良の睡眠導入剤になるのだ。さて、本書は現代語訳と銘打たれており、苦痛無く読みやすい日本語として構成されている。当然、普通の小説やビジネス書を読むように、すいすいと読み進むことができる。その意味で、ニーチェの主張を短時間に理解するのには素敵な本である。
もしも、興味が尽きなければ、その後で、本格的な翻訳を購入すれば良いだろう。


ちなみに、本格的翻訳ものは、次の二つだ。ちくま書房出版のものはペーター・ガースト版の翻訳、白水社のものはデ・グロイター版の翻訳である。
 

2010年4月5日月曜日

書評:「音漬け社会」と日本文化 / 中島義道&加賀野井秀一

中島義道の「うるさい日本の私」(新潮社)を読んだのは、もう10年程前だろうか。街中に溢れかえる音には、かなり辟易としていた私にとって、かの著作は何とも溜飲を下げるものであった。読み進める度に「そう、そうなんだよ、そう!」とうなずくことがとても多かった。この国では、こんなことをしても全く意味が無いと思うようなアナウンスが、エンドレステープで何度も何度も送り出される。空港の保安検査場は、まさにそのような場所だ。例えば「ペットボトル、液体の入ったビンは出せ。コンピュータは取り出せ。底の厚い靴は脱げ。」というアナウンスは、関西国際空港国内線保安検査場では、エンドレステープで流され続ける。その前に、いくつもの説明書きが看板で出されているというのに。駅でも、ビルの入り口でも、とにかく「ああせい、こうせい」と五月蠅いのだ。しかし、そういう感覚は、中島が述べるように希なのかもしれない。誰もが文句を言わないし、それを五月蠅いとも思わないようなのだ。

昨年、書店店頭に並べられた本書を手にしたのは、全くの偶然からだった。海外出張前の空港で、旅行中に読む本を物色していた時の事だった。10年ほど前に怒っていた欧州文化を対象とする哲学者「中島」はどうなったのかが、俄然気になった。10年前から考えると、ますます五月蠅いアナウンスは巷に溢れかえり、一段と丁寧に、かつ、沢山のことを言うようになっている。アナウンスそのものも意味不明なものも多い。明らかに中島の活動は成果を上げられなかったのだ。じゃぁ、彼はどのように総括するのかが気になるのだ。
本書は、やはり欧州文化を対象として活躍する哲学者である加賀野井との往復書簡の形式をとり、議論を組み立てている。そして、この騒音が社会に無批判に受け入れられているのは、日本社会の特性に、まさに「はまってしまった」現象として解き明かされていく。特に、責任回避のためのツールであり、また、騒音をまき散らすことが現実に「善いこと」と解釈される、公共性を持ったメッセージング手法が、個別摩擦を事前回避する方法として編み出されてしまったこと。そして、それがコミュニティに対する和を維持する一つの有力な方法だと考えられていることを議論の中で明らかにしていくのだ。そして、最終的に、この音を社会から減らすのは到底不可能に近い所業であることを明らかにしてしまう。つまり「日本人よ、変われ!」と言っているようなものだからだ。
怒れる中島は何処に行ってしまったのか?と訝りたくなるほど、彼の論理は、自らの敗北を認めつつ、この日本社会が持つ根深い病巣を明らかにしてしまうのだ。大変興味深い論を展開している。
中島の「社会騒音論」を読んだことのない人は、先の一冊「うるさい日本の私」を読んでから、本書を読むことをお薦めする。

 

2010年4月4日日曜日

書評:大暴落1929 、グローバル恐慌 - 金融暴走時代の果てに

1955年に初版発行された「大暴落1929」は、米国ニューヨーク証券取引所で起きた1929年10月24日の「暗黒の木曜日」と称された大暴落は何故起きたのかを、経済学者ガルブレイズが克明に解説する。恐慌とは、実体経済と、金融活動が仮定している経済規模の乖離が大きくなりすぎて、その乖離を暴力的に是正する状況を意味する。1929年の大暴落は、不動産価値が無限に上昇するという幻想の元で作り出された不動産バブル、会社出資型投資信託という新しいツールの登場と高いレバレッジ率を誇った売り込み、金融機関同士が出資もたれ合いをしていた状況、高いコールレートの存在などを通じて、ニューヨーク証券取引所に世界中の資金が集中したところから始まる。そして、まさに数年間の時間を掛けて、実体経済から乖離された金融商品取引環境が作りだされたのだ。さらに、レバレッジは右肩上がりにも効くが、右肩下がりにも同じく大きなインパクトで下げを喰らう。結果として、一度売りに転じたところで、ドンドンと雪だるま的に市場は下落し、同時に追い証を求められた投資家が株を売りという最悪の雪崩現象を生み出した。そして結果としては、一日にして約1290万株が売られ、最悪の暴落を記録する。さらに、その後、市場は下げまくり、金融市場の不調は、資金調達の困難を広く生み出し、結果として実体経済にも大きな影響を広げる。1000社を越える銀行が潰れ、経済も大きく収縮。その後10年間、米国経済は復活に時間を使うことになってしまう。
本書は、大暴落が起きるメカニズムを分かりやすく、かつ体系的に解説する。そして、この雪崩を引き起こしてしまった状況が、商業銀行と投資銀行の垣根が無かったことや、コールレートの制御をFRBが持っていなかったこと、さらには、投資規制が適切に行われてなかったことを明らかにする。1929年以降に、これらのメカニズムは改善されたことも述べている。また、金本位制を引いたドルのために、本当は市場に資金供給が潤沢になされなければならなかった時に、ドルが大量に国外に流出したために、逆に資金供給を引き締めなければならなかったこともメカニズムの不備として述べている。これは、その後の管理通貨制度への道を開いたのだった。
ガルブレイズの述べる言葉は大変意味深い。
  • 本当に実態が悪くなっている時に人は、「状況は基本的に健全である」という言葉を口にする。
  • 人は確信がもてないときほど独断的になりやすい。
  • 何かをするためでなく、何もしないために開く集まりがある。
  • 人間は知っていることばかりを話すのでもなければ、知らないことばかり話すのでもなく、知っているつもりだが、実は知らないことを話すことが多い。
もう一つ重要なのは、1929年大暴落を契機に、恐慌を防ぐために色々な制度を作ってきた。しかし、この制度は、実は1971年のニクソンショックを契機に撤廃されてきている。この事は、本書では述べていないので、注意すべきである。



さて、浜矩子先生の「グローバル恐慌 - 金融暴走時代の果てに 」は、ガルブレイズの「大暴落1929」を読破してから読むと、さらに理解が深まる良い本だ。
2008年リーマンショックは、世界中の金融市場と金融機関を巻き込んで、100年に一度の最悪の状況を生み出している。これを世界同時金融危機と呼ぶことが多いが、浜は、これこそがグローバル恐慌そのものであると主張する。
本書では、この恐慌が1971年のニクソンショックにまで原因が遡ることができること、米国のインフラ頼みの成長政策と金融規制緩和が原因にあること、さらには、バブル崩壊からの日本円のゼロ金利政策が今回の恐慌の大きな原因であることを述べる。債権の証券化は、単に世界中にリスクをばらまく手法であったと、バッサリ切り捨てる。2009年当初の状況を踏まえ、この恐慌がどうなるのかを見てるのが本書である。さらに、日本円は、いまやグローバル経済の「隠れ基軸通貨」になっていることも述べる。
本書を読了してショックなのは、この恐慌から世界経済が復活するには10年掛かると述べている。日本は、既に「失われた10年」を体験し、そのままグローバル恐慌からの復帰10年、つまり合計で20年不況を経験することになるという話だ。覚悟はしているが、やはり気分は凹むなぁ。